「ドイツの土とハンガリーの血」ヤルヴィのブラームス・チクルス2日目

2014.12.13.Sat.10:14
■ブラームス・シンフォニック・クロノロジー・第2日
■2014年12月11日(木)19時@東京オペラシティコンサートホール
■出 演
 クリスティアン・テツラフ(Vn)
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮
 ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団

♪ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 op.56a 
♪ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77 
【ソリスト・クリスティアン・テツラフのアンコール】
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005より「ラルゴ」
【休 憩】
♪ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 op.73 
【アンコール曲】
♪ブラームス:ハンガリー舞曲 第3番 ヘ長調
♪ブラームス:ハンガリー舞曲 第5番 ト短調(この演奏は聴けなかった)

今週、東京オペラシティで4日間かけて
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団による
ブラームス・チクルスが行われています。

私は第二夜を聴いてきました。
N響の主席指揮者に就任するヤルヴィの実演を聴いておきたかったことと、
今回、同行してくれた友人U氏がヤルヴィはイチオシの指揮者ということもあり、
片道2時間半かけて出かけていきましたが、それだけの価値がある演奏でした。
私はたいへん満足しました。

4回のうちなぜ2回目にしたかという理由は、
ブラームスの音楽的多様性がよく表れていると思ったからです。
ハイドン・バリエーションには、ドイツ音楽の先人たちへの尊敬と継承の意志、
ヴァイオリン協奏曲には、ジプシーやハンガリー民謡への共感と興味、
交響曲第2番は、牧歌的、田園的な自然にあふれている。
ブラームスの一般的なイメージは、重厚で渋いという感じでしょうが、
3つの演目で通奏低音に流れているのは「うた」そのものです。

開演前、はやめの夕食をU氏と六本木でいただきながら
ハイドン変奏曲がアンティパスト、
ヴァイオリン協奏曲がプリモ・ピアット、
交響曲がセカンド・ピアット
そしてアンコールがあればそれがドルチェ。
イタリア料理のフルコースみたいな演奏会になりそう~
という雑談をしていました。

全体的な印象は以下の通りです。
①ドイツ・カンマー・フィルの地方色ある「訛り」を持つ音が懐かしかった。
②テツラフのバイオリン独奏はロックそのものだった。
③ヤルヴィは音楽を再構築しながらも、正統性を感じさせる音楽づくりをしていた。



①ドイツ・カンマー・フィルの地方色ある「訛り」を持つ音が懐かしかった。

ドイツ・カンマーフィルはブレーメンを拠点とする楽団です。
ベルリン・フィルが「美しい標準語」の音楽とするならば、
ドイツ・カンマーは、「忘れてかけている田舎の「訛り」のようなものが感じられる音楽。
昔、聴いたバンベルク響や北ドイツ放送響、ゲヴァントハウス管もそうだった。
懐かしい気持ちになります。
響きにドイツの土っぽさが残っています。
洗いざらしの木綿のTシャツのザラザラした肌触りが、
上等な絹なんかよりも気持ちがイイ、という感覚に似ています。

弦の編成が低弦や内声が厚めで、
音の土台がしっかりしていました。
また弦の配置がユニーク。
第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンという並びで
つまりヴァイオリン同士が対向配置。
コントラバスはチェロ後方の右奥でした。
したがって、第1ヴァイオリンに被さって、低弦の音が響きます。
一方で内声のヴィオラと第2ヴァイオリンが自立して明瞭に響かせる意図なのでしょうか?

また楽団員同士のコミュニケーションが
うまくいっていそうな雰囲気を感じ取りました。
それは強いサッカークラブのパス回しにも似ていて、
止まってパスを受けるのではなく、
走る先のスペースにパスが出されるのに似たアンサンブルだと思えたからです。
意思疎通ができているので、正確無比なパス(アンサンブル)じゃなくても、
それをカバーできる余裕があるということです。

②クリスティアン・テツラフのバイオリン独奏はロックそのものだった。

長く堂々とした序奏の後のテツラフの独奏は、電光石火のごとくはじまり
ジプシー・ヴィアオリン的な攻撃的で鋭く、ロック・ミュージシャンのような
何かに飢えた狼のように音楽を奏ではじめました。
しかし
その演奏は計算されたもので、
燃えるのような激情と緊だけでなく、
弱音部分の細かいニュアンスやフレージングも卓越していました。
演歌でいうこぶしのようなもの。
こういうところにジプシーの哀しさがよく出ていました。
テツラフにも「うた」の心が備わっていました。
私はテツラフの独奏を聴きながら、
この曲を十八番にしたジネット・ヌヴーの録音を思い出してしまいました。

ドイツ人のブラームスとテツラフにも
音楽的DNAにジプシーの濃い血が流れていたようですw
ブラームス、バルトーク、ヤナーチェックらが
ハンガリー民謡などに関心が高かったのは、
近代性・現代性で失われつつあるプリミティブな感情でしょうか。

③ヤルヴィは音楽を再構築しながらも、正統性を感じさせる音楽づくりをしていた。

演目について短観してみます。

・ハイドンの主題による変奏曲、
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンは変奏曲をつくることが上手かった。
先人の主題をモチーフに変奏曲を作ることは、
彼らから何かを継承することにも似ている。
そういうブラームスの気持ちをヤルヴィがよく代弁していた演奏でした。
あるいは、ブラームスの作品であっても
ハイドンの交響曲の一部を演奏していたとも言えそうな
明晰で生気のある感じもしました。

・交響曲第2番ニ長調、
これは一般的なテンポよりも、ややはやい感じでした。
それは音楽の流れや推進力を増すねらいだったのではないか
と私は思っています。

長大な第1楽章の後は少し間をとり、
続く第2~4楽章は間髪おかず一気にフィナーレまで演奏されました。
だから4楽章構成でも、第1部と第2部という構成に聴こえてきた。
(第1部)としての第1楽章は、音の風景画家と言っても言いような景色が見えた。
(第2部)としての第2~4楽章は、ブラームスの心の動き。
1部と2部は、演奏時間がほぼ同じで、いっそう対比感がより強調されてた。
なぜこのような聴かせ方をしたのかヤルヴィの真意は分かりませんが、
新しい構成感が出ていたような気がします。
ブラームスの革新的な側面は
新ウィーン楽派に評価されたところでもあります。

なにより、私が気分が良かったのは
全体を見据えた上での、演奏の流れの良さです。
ピシッ!と引き締まって聴こえてきました。
ヤルヴィはこの曲を自分なりに再構築するレベルへ到達していました。

今年、小澤征爾氏が指揮した水戸室内管弦楽団の2回の定期演奏会で、
ベートーヴェンの交響曲第4番と7番を聴きました。
体力・体調が万全でない小澤氏は
楽章が終わるごとに1~2分の間、椅子に座って水を飲みながら休憩。
それぞれの楽章が良い演奏であっても、
楽章間が間延びしてしまうと
全体的なまとまり感が薄らいできてしまうものです。

部分あるいはパーツ美人であっても、
全体のまとまりや調和がないので微妙に見える…。
それはまさに美容整形美人のような音楽でした。
私はひどく失望しました。
しかし周りの聴衆は「世界のオザワ」に拍手喝采。
私は取り残されたような気持ちでした。
そういうこともあってヤルヴィのブラ2は、
私の「オザワ・ショック」のモヤモヤを払拭してくれました。



こんな演奏が聴けるのなら、
もし東京在住だったら4日間、通っていたでしょう。
アンコールとしてハンガリー舞曲から3番と5番が演奏されたのですが、
高速バスの予約便の関係で、5番がはじまる前にホールを発ってしまいました。
残念でしたが、
これは来年2月のN響を指揮するヤルヴィの定期演奏会を聴きにこい!
ということでしょうかw。
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