インバル&都響の「ブル七」 @ミューザ川崎

2014.08.04.Mon.22:52
◇フェスタ・サマーミューザ KAWASAKI2014
◇2014年7月30日(水)19時~@ミューザ川崎シンフォニーホール
◇エリアフ・インバル指揮&東京都交響楽団
♪ワーグナー:ジークフリート牧歌
♪ブルックナー/交響曲第7番<ノヴァーク版>

バタバタしていて、なかなかUPできなかった音楽会の感想を記します。
先週の友人のU夫妻と蒲田で餃子を食べた後、いっしょにミューザ川崎で、
エリアフ・インバル指揮の東京都交響楽団の演奏を聴いてきました。

さる6月10日の日記で
「ワグネリアンのいろいろ」という日記を書きました。
この時、上記のコンサートを聴くにあたって、
インバルはこの2曲で「ワーグナーの愛と死」を表現したいのではないか~と予想しました。
その理由は、
「ジークフリート牧歌」はワーグナーが最愛の妻コジマの誕生日のために作曲したもので、
ワーグナー家の幸福の絶頂を象徴する音楽であり、
ブルックナーの交響曲第7番の第2楽章は、
敬愛してきたワーグナーが危篤という知らせを聞いて
ブルックナーが「ワーグナーの死を予感しながら書き進められ、
実際に作曲者はワーグナーのための「葬送音楽」と呼んだことがその理由でした。
私が事前に書いた日記とほぼ同じ内容のことが、
当日、配布されたプログラムにも記されていました(苦笑)

しかしながら、先週、その実演に接してみて、
インバルや都響がつくりだしていたパフォーマンスは
私が予想していた「ワーグナーの愛と死」の世界とは異なるもので、
意表を突かれたと同時にとても清新な印象を受けました。

まず最初の「ジークフリート牧歌」は
妻コジマの誕生日を祝って作曲された室内楽でしたが、
都響のストリングスの響きがシルキーでなめらか、そして清涼感があり、
ワーグナーの歌劇や楽劇の濃厚な世界とは真逆の側面にふれた感じでした。
ワーグナーは音楽界の異端児であっても、
家庭では夫であり、父であることが分かるものでしたね。

ブルックナーの交響曲をコンサートホールで聴くのは久しぶりでした。
オーケストラによってオルガンのような壮大な響きを体感できるのが
彼の音楽の持ち味のひとつです。
ところが、インバルが振る第7番は、
通常聞き慣れた壮大重厚なテンポよりかなり早い。
腕時計でだいたいの演奏時間を計っていましたが、約59分でした。
(一般的には65~70分ぐらいでしょうか。)
それと、第一楽章、第二楽章が続けて演奏されました。
しかしながら、早く演奏されたことが、
ブルックナーの音楽を歪めたとは思いませんでした。
第二楽章の神々しいコラールはとても美しかったと思いますよ。

全体的に筋肉質の引き締まり、音密度が濃い凝縮感がある演奏だったと言えます。
山や森のようなどっしりとした印象が持つことが多かったブルックナーの音楽でしたが、
当夜のインバルのブル七は、ミケランジェロのダヴィデ像のように
地面に垂直に屹立する贅肉のない新しいブルックナー像に出会った感じでした。

ところで、私はインバルと都響の組み合わせで聴いたのは、はじめてでした。
ブル七が演奏される様子を眺めていると
コンマスの矢部氏が配下のヴァイオリン奏者をよく束ね、
ボーイングのアップダウンや間合いを体全体を使いながら、後方へ示していることがよく分かり、
かつチェロの古川氏、コントラバスの池松氏ら低弦のリーダーも
自分のグループをよく統率しることが一目瞭然でした。(ビオラは見えなかった)
指揮者を筆頭にして家族関係のような親密なものを築いている感がありました。

そういうことを考えならら、ジークフリート牧歌やブル七の演奏から
あぶりだしのように浮かび上がってきたのは、
「家族愛あるいは絆」のような概念です。
そして、都響はすごくうまくワークしている音楽家の集団だと思えました。
音楽を演奏することが、このうえなく幸せだと感じる人々の演奏だったら、
どんな人でもそれを察知できるはずだと思います。
(それができなかったのは、一部の偏狭なブル・オタでしょう。)

この日の音楽会は、演奏だけでなく、
聴衆もよく集中し、気になるようなノイズもなく
とても気分よく音楽にひたれた夜でした。


スポンサーサイト
コメント

管理者にだけ表示を許可する