内田光子ピアノ・リサイタル~超越したものへ

2013.11.08.Fri.15:58
■吉田秀和生誕100年記念コンサートⅢ
■内田光子 ピアノ・リサイタル
■2013年11月5日(火)19時@水戸芸術館

♪J.S.バッハ:〈平均律クラヴィーア曲集 第2巻〉から
         第1番 ハ長調 BWV870&第14番 嬰ヘ短調 BWV883
♪シェーンベルク:6つの小さなピアノ曲 作品19
♪シューマン:森の情景 作品82
  【休 憩】
♪シューマン:ピアノ・ソナタ 第2番 ト短調 作品22
♪シューマン:暁の歌 作品133
  【アンコール】
♪ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2から第1楽章

今秋、小菅優、ラドゥ・ルプー、イザベル・ファウウスト、内田光子といった
すばらしいリサイタルを聴くことができて、まず音楽の神さまへ感謝です。
私が内田光子氏の生演奏を聴くのは4回目。
2年ぶりに水戸で聴く彼女の今回のリサイタルは
今、世界で聴きうるものの中でも最高のものだと思いました。

私、演奏会に臨む前に関心を持っていたのは
内田氏のピアノの「音」でした。
SNSの知り合いのベルウッドさんから教えていただいた
内田氏が採用しているという古典調律法による響きが
実際にどんなものなのかを
意識して生で体験したいと思っていたからです。

一般的な調律は、
平均律(1オクターブを12の半音で均等に調律する)ですが、
内田さんの方法は、ヴェルクマイスターの3度という古典調律法ということです。

冒頭で演奏された
バッハの平均律クラヴィーアと12音技法をつくられたシェーンベルクのピアノ曲は
このことを検証するにはぴったりの演目です。
言葉にするには難しいのですが、
音に濁りや淀みがない波動、豊かで美しいピアノの響きだと思いました。
私、11/3にイザベル・ファウストが弾く
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全曲)を聴いたばかりで、
ヴァイオリン奏者が自分でつくる音程のイメージが頭に残っていたためか、
内田氏のピアノの響きがヴァイオインの音程感覚と同調した感じがしました。

ピアノの件で、水戸芸のS学芸員と話しをして知ったことは
スタインウェイは内田氏の持ち込みで専属の調律師がいたこと、
ピアノの車輪が通常はステージ側を向けるのに演奏者の方向に向かっていたこと。
ピアノの位置が通常よりも前目で、比較的、残響に頼らない位置だったこと。
これはホールの響きよりも、ピアノのなま音を聴かせたいという意図かな?
今回のリサイタルでの調律が、古典調律法だったかどうかは断言ができませんが、
並みのピアノの音ではないことは明らかです。

前半冒頭のバッハの『平均律』、
私はとても明晰な演奏だと思いました。
「バッハの音楽って、こうですよね!」と
演奏者からに問いかけられている感じ~w。
1番はやや深目のタッチでしっかりとピアノを鳴らしていた感じがしました。
一方で、14番のプレリュードは私が大好きな曲で、シミジミとした響き。

続いて演奏された曲はシェーンベルクによる無調の音楽。
音の粒の断片が空間を浮遊し美しく輝いている。
あのミケランジェリはこのようなキラキラ感がある音を出していたのか?
そして弱音になんともいえないフワッとした奥行き感がある。
私は弱音というよりも、
ささやか音という意味で「微音」という言葉が好きです。
ラドゥ・ルプーの弱音を美・微音とするなら、
内田氏の場合は幽・微音でしょうか。

冒頭に独墺の音楽史をタテに繋げた時、はじめと終わりに位置する
バッハとシェーンベルクの音楽が続いて演奏されたことで
バッハのフーガの柔軟な線の運動が解体されて
素数のように割り切ることがない音が再構築されたようなイメージを持ちました。
音楽の源流は、音楽の父バッハだと思っていましたが、
「素粒子」としての音の源泉はシェーンベルクにもあることを知らされた思いです。
音楽の原理を説明していただいた感じでした。

続いて演奏されたのはシューマンの3曲のピアノ曲。
『森の情景』とピアノ・ソナタ第2番ト短調」の関連するところは
文学(言葉)じゃないかなと思いました。
(そういう点で『暁の歌』は異色。)
この2曲の音楽的な性格からすると
シューマンが提唱した芸術集団「ダヴィッド同盟」の構成員、
静的なオイゼビウスと動的なフロレスタンに相応するのだろうか
と邪推してみたり(笑)

『森の情景』の第4曲「呪われた場所」には
フリードリヒ・ヘッベルの詩の添えられています。


森の中でそんなに高くのびた花も
ここでは死のように青白い
真ん中の1本の花だけが
くすんだ赤い色で咲いている
その色は太陽から得たものではない
それは太陽の光さえ受けたのとがない
その色は大地からのもの
それは人間の血を吸いこんだものなのだ


一方で、ピアノソナタ第2番の第2楽章は
シューマン自身の歌曲「秋に」の
メロディの引用があります。詩はユスティヌス・ケルナー。
(実は私、ドイツ歌曲好きなのですw)


去れ 太陽よ 去れ
急いでここから ここから
そうなれば彼女を暖めるのは
ただひとりぼくだけになる!

枯れろ 花たちよ 枯れろ!
黙れ 小鳥たちよ
そうなれば彼女に歌い 咲きかけるのは
ただひとりぼくだけになる!


2つの詩に共通するのは
太陽(つまり世の中)を否定し、
孤高の1本の花(おそらくシューマン自身)だけがあるという
ロマン主義的さすらい人的な心境があるように思います。
内田氏なら、こんなことを知らないはずがない!
むしろ意図的に組み合わせたのではないかと私は
彼女の演奏を聴きながら考えました。

私には、内田氏のシューマンの演奏から、
ベートーヴェンのような論理的な音楽とは真逆の
断片的で音楽そのもののまとまりのなさ、こわさ、
無理がある感じ、淀み、屈託感のようなもの、二重性が
恐ろしいまでにピアノ演奏によって表現されていたと思いました。
音の陰影感、ヴィルトゥオーゾ感は申し分なし。
美しい演奏というよりも、恐ろしいというかスゴイ演奏。
私は戦慄しました。

プログラム最後はシューマンの「暁の歌」でした。
シューマンの最後に完成されたピアノ曲集です。
演目の流れからすると、この「暁の歌」が続くこと、
ちょっと不自然な気持ちが正直ありました。

シューマンの弟子ブラームスの晩年の間奏曲にも通じるようなはかなく渋い響き。
遠くの方から、コラールやファンファーレのような響きが切ない。
暁とは日の出のことですが、
消える寸前のロウソクの炎が一瞬の煌きを見せるような音楽とも言えます。
コンサートの終演とシューマンの終焉を重ねて聴きました。

SNSの知り合いのはるさんが東京公演の感想で書いていた
「シューマンは既にどこか精神に異常をきたしていたのだけれど、
ここにある音楽は晴明だ。
けれど、その晴明さというものはどこかぽっかりと穴が空いている。
その闇はどこまでも深く、昏いもの。
これを”暁”の歌と名付けたところに、シューマンの狂いというものはある。」
というは、とてもよく言い当てているなぁと感心しました。

「暁の歌」が終わった瞬間、
しばらくの沈黙の時間。
そして万雷の拍手。
いつものように、
内田氏は膝に頭が着きそうなぐらい
深々としたお辞儀。

するとアンコール。
ベートーヴェンの「月光ソナタ」の第一楽章。

私、はじめはビックリでした。
閉幕した後、私はすぐに
以下のようなツィートをしたくらいでした。


内田光子さんのピアノリサイタル。
シューマンの「暁の歌」の後のアンコールは月光ソナタ。
太陽と月。
燃え尽きた太陽の死の後に暗闇が来たイメージ。
見事なエンディングだった。


私は「暁の歌」の後に「月光」が弾かれることで
今夜の演奏会が完結したことを最後に知りました。
シューマンの死の後にきた静かな水面と闇を見ることができました。
おだやかに静かに弾かれた「月光ソナタ」の光の反映、
演奏が終わっても、しばらくその三連符が
頭の中で鳴り止みませんでした。
すばらしい音楽が聴けて、大満足。

今回のピアノ・リサイタルは、
「吉田秀和生誕100周年記念コンサート・Ⅲ」として行われました。
2011年秋の水戸芸術館でもリサイタルの後、吉田氏は内田氏に
「またここで演奏してほしい~」と依頼したそうです。
2012年に吉田氏は亡くなりましたが、
内田氏はその約束を果たしてくれたことになります。

内田氏の外交官だった父親がウィーンへ赴任する時、
12歳だった娘・光子を連れていこうかどうかを吉田氏に相談。
周囲の猛反対にも関わらず、吉田氏は「連れていきなさい」と賛成。
あの時に日本に残っていたら、今の内田氏はあったでしょうか?
吉田氏は内田氏の恩人とも言えそうです。

演奏会後、私はぼんやりと
吉田秀和氏の最初の著作『主題と変奏』を思い出していました。
ここではバッハと比較しながらシューマン論を著していますが
吉田さんが言いたかったこと、
バッハとシューマンの似ているところとして
「人間の感情を超越したものがこの二人にはある」
と書かれていました。
内田光子さんのバッハヤシューマンの演奏を聴いて
私もその超越としたものに触れたような気がしました。


AUTHOR: ゲルバー夫人
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DATE: 11/09/2013 19:55:15
ただ一言…

内田光子は神である



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