「オーボエ祭り」の東京交響楽団・日立公演

2018.06.07.Thu.14:26
6/6水曜、日立シビックセンター・音楽ホールで東京交響楽団の公演を聴いてきました。上京した時、このオケを聴く機会があまりないので、どのような響きがするのか楽しみでした。演目は以下の通り。
・ロッシーニ:『絹のはしご』序曲
・リヒャルト・シュトラウス:オーボエ協奏曲※
・ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
(指揮)飯森範親
(オーボエ独奏)荒木奏美※
(管弦楽)東京交響楽団

この公演のプログラムが発表された時、「オーボエ祭り」であることは確信できました。オーボエ協奏曲は言うまでもありません。『絹のはしご』序曲と『英雄交響曲』にはオーボエの重要な独奏があり、オーボエという楽器の聴かせどころが満載だからです。しかもオーボエ協奏曲を独奏する荒木奏美氏は東海村出身で、私の高校の後輩でもあります。国際オーボエコンクール・軽井沢で日本人初の1位をとり、芸大院在学中ですが東響のオーボエ主席奏者に就任。順調にキャリアを積み上げているようです。ということで、荒木氏の凱旋公演。演目も気を利かせて「オーボエ祭り」となることは自然でしょうねw。

前半の弦の構成は8-8-6-4。やや小さめの編成。
冒頭のロッシーニの『絹のはしご』序曲は、イタリアオペラらしい明るい太陽のような音楽。ハイドンを思わせるユーモア、転調が利いています。このオペラは聴いたことがないのですが、劇中のアリアなどが引用されている曲なんでしょうね。この曲のオーボエ独奏はもうひとりの主席の荒絵理子氏。荒氏と荒木氏。名前が似てますね。(荒氏はある時期、水戸室内管弦楽団の2番オーボエで出演していました、東響に入団したからは水戸へ来なくなりましたね。)音の刻みとか難しいフレーズがあるのですが、無難に吹いていたと思います。2本のオーボエのデュオはなかなかキレイでした。

2曲目のリヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲。白い楚々としたドレスで荒木氏は登場。オケ・メンバーは彼女の凱旋公演であることは分かっていたようで、後方から盛り立てようとする意識が感じられました。彼女のオーボエの特徴は素直さと澄んだ音色。2階席中央の最前列から双眼鏡で見る限りでは、微笑みながら歌うように演奏しているように見えました。この音楽は小さめの編成で可愛らしさ、感情の機微、コミカルさ、清々しさがあります。私が演奏する彼女の姿を見ながら、シュトラウスの歌劇『薔薇の騎士』のゾフィーが歌っているような想像をしました。指揮の飯森氏も、ソリストが気持ちよく吹けるようにサポートしていました。特にエンディングのアンサンブルが難しいところ、一瞬、余白がはいる休符のところで飯森さんが「ウッ!」と掛け声を出しているように聴こえたのは私だけか?

後半は、英雄交響曲。編成も10-8-9-5と大きくなっています。ヴィオラが異様に多い。中盤厚めということでしょうかw。指揮者の飯森氏ははじめて聴きました。山形交響楽団で非常に良い仕事をしていると訊いていたので楽しみでした。飯森さんのエロイカ、インテンポ気味でしたが、全体的にスッキリした見通しがよい演奏でした。ただここ数年の間に聴いたN響、読響、都響と比べると弦の響きに物足りなさを感じます。特に弱音!それと硬質な音のティンパニが叩きすぎでひとり目立ちしてた。心配していたホルンはそれなりに健闘。木管はなかなかチャーミングなアンサンブルで良かったと思います。この曲で私が注目するオーボエの出番は、第2楽章の葬送行進曲の独奏と第4楽章の「プロメテウス」の主題の変奏をオーボエの出番のところ。ここは荒氏が吹きましたが、卒なくこなしていました。

全体的にはそれなりに楽しめた公演でした。
日立やいわきには、年に数回、在京オケの出張公演があるので、時間が許せば聴きに行きたいとは思っています。この日、実はサッカー天皇杯があって、カシマスタジアムへ行きたい気持ちもありました。しかし今回は音楽をとりました。しかし最近、私は地元よりも東京で音楽を聴く機会が多くなりました。でも興味がある公演があれば、地元でも聴きます。日立のシビックセンターやいわき市のアリオスは、音楽ホールとしてはまあまあですし…。私が中学生のころ、だから40年ほど前、若き日の小澤征爾が振る新日本フィルや、内田光子がN響と共演したモーツァルトの23番の協奏曲を地元の日立市民会館で聴いたことが、私の音楽経験の原点ですからね。

ちょっと脱線しますが、実を言うと

オーケストラにおけるオーボエは
サッカーのボランチに相当する!

と、私は常々、考えていました。

そう考えた理由①昨夜、聴いた東京交響楽団の日立公演では、演目の重要な局面の切り込み隊長としてオーボエが活躍する演目が並んでいたから、②サッカーW杯ロシア大会が近いことがあって、中盤で重要なボランチというポジションのことを特に注視してみるようになってきたから…と言えるでしょう。

ボランチとは、サッカーにおける守備的な中盤のポジションのことです。ポルトガル語でハンドルを意味します。近代サッカーにおけるボランチの役目は、守備だけでなく、前線へパス供給をするというフィールド全体を鷹のように俯瞰しながら、試合をコントロールすることです。ボランチという言葉は、94年のアメリカW杯でブラジル代表の主将だったドゥンガが活躍したころから使われはじめたように思われます。

オーケストラにおいて、ステージ中央に座るのがオーボエ。
チューニングでA音を出すのもオーボエ。音楽における緩急、強弱の切り替えのきっかけがオーボエ。全体の響きの中で、内声部分の厚みを担当するのがオーボエ。独奏や聴かせどころが多いのもオーボエ。ボランチの名選手はフリーキックが巧いし、後方からスピードにのって攻撃参加してミドルシュートを決めることも多い。

やぱり、オーケストラにおけるオーボエは
サッカーにおけるボランチの役割と似ている。

余談ですが、オーボエ奏者は自分でリードを作っているせいか、個性が出やすいように感じられます。これまで私がライブで聴いたオーボエ奏者をサッカー選手に喩えると、

竹を割ったような潔さ、実直さと卓越した技巧を感じたハインツ・ホリガーは
小笠原満男(鹿島)、ベロン、ボバン

芳香を感じる色気がある音色の宮本文昭は、
遠藤保仁、ピルロ、シャビ

バランスがよく気が利くフィリップ・トゥーンドルは
柴崎岳、稲本潤一、長谷部誠

異論は認めます(笑)
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ラスト・ピリス、ロスト・ピリス(その2)

2018.04.29.Sun.17:03
【4/27の日記につづきです。】

4/26木曜の夕方、築地で軽くお寿司をKさんと一緒に食べてから、浜離宮朝日ホールへ向かいました。この日のコンサートは今年で引退するピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスの日本における最後の演奏です。4/17火曜はサントリーホールでソロリサイタルでしたが、この日は弟子リリット・グリゴリアンとのデュオ・リサイタル。入場すると人集りができていて、近づいてみるとプログラムの変更が記されています。

モーツァルト :4手のためのピアノ・ソナタ ハ長調 K. 521
モーツァルト :ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調K. 576  (グリゴリアン)
モーツァルト :ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調K. 330/300h  (ピリス)
シューベルト:4手のための幻想曲 ヘ短調D.940

予定ではオール・モーツァルト・プログラムでした。しかし予定されていた四手のためのピアノソナタのK19dとK381が無しとなり、代わりにシューベルトの幻想曲D940が最後に演奏されるとありました。これは嬉しい。4/17に聴いたシューベルトの即興曲D935が素晴らしかったので、最後にもう一度、ピリスのシューベルトが聴けます。
この日もチケットは完売。開演前のホールの雰囲気はどことなく神妙な感じ。ラスト・ピリスへの期待とロスト・ピリスの惜別の思いを抱いた方が数多と思われました。

1曲目のモーツァルトのK.521。セカンドのグリゴリアンから弾きはじめ、それを追うようにプリモのピリスが続きます。当初、グリゴリアンはかなり緊張をしていたようでした。格上の師匠の引退公演に共演する弟子の心境を考えたら、それは自然でしょう。その時、ピリスはピアノを弾きながらグレゴリアンに何か囁きました。(私の席は前から5列目の中央やや右手で、演奏者の表情がよく見えました。四手の曲は1台のピアノを二人が並んで弾きます。)もちろん何を言ったかは分かりませんが、口の動きから“canta!(歌いなさい!)と言っているように見えました。この曲は、恋人たちの対話のような音楽。ピリスの囁きによって、ぎこちなかった恋人同士の対話が滑らかになっていったような感じでした。

2曲目はグリゴリアンの独奏でK.576のソナタ。冒頭、「ラ・レラレ・ファレファ・ラーララー」というトランペットのファンファーレからはじまり、それに木管楽器が絡んでいきそれに弦が加勢する…といったオーケストラの響きを意識した音楽だと私は思っています。とても威勢がよい出だし。この曲は難曲と言われているそうですが、バッハを思わせる対位的なところ、半音階的なところをグリゴリアンは無難に弾いていたと思います。やはり緩徐楽章のシンプルなメロディの歌い方はまだまだです。何度も何度も懸命に練習した跡は感じられます。しかし、練習の過程を全部忘れ、今、この瞬間にこのメロディが生まれたかたのような感興がないと、師匠ピリスには追いつけません。グリゴリアンの演奏中、ピリスはステージの右奥に座って弟子の演奏を聴き入っていました。演奏が終わりお辞儀をした弟子に、師匠が水が入っていたコップを渡していました。微笑ましい光景。観客席からは笑いが起こり、なぜか和みました。私、ステージ上で水を飲む人を初めてみましたw。

休憩をはさんで、後半はピリスの独奏でK.330。4/17に聴いたK.332やK.333と同様、着席するとすぐに演奏を開始。その姿が飄々としていました。符点やトリルや装飾音符には音以外の何かがあります。水の雫あるいは光のようなキラキラ感?これが最後の演奏会となる聴衆の万感の思いとは一線を画して、ピリスは無心でピアノに向きあっていたように見えました。何度もこの曲を弾いてきたはずなのに、はじめてこの曲に出会ったかたのような新鮮さ。引退する人の演奏とは思えない天衣無縫なモーツァルト。師匠の演奏中、弟子はステージの端に座って聴いていて、演奏が終わると水を差し出していました。ホール内は、また和みました。

異論があるかもしれませんが、師匠ピリスとその弟子グリゴリアンを赤ワインに喩えると、弟子は若いボルドー、師匠は年代物のブルゴーニュのよう…。数種のブドウをブレンドした若いボルドーは力強く渋みがあり、複雑で豊かな味わいが出るには時間が必要です。一方で年代物のブルゴーニュは、ボルドーと違ってピノ・ノワールという葡萄だけで作られます。畑や生産者の個性がダイレクトに顕れます。コルクを抜くと時の経過を感じさせない瑞々しい芳香と繊細で豊かな味わい。彼女たちの独奏を比較して、そう思いました。

最後はシューベルトの四手のための幻想曲D.940。演奏が始まろうとする一瞬、会場内が月にいるかのように静まりかえり、私はゾクッとしました。こういうこと滅多にありません。聴衆全員がピリスの最後のパフォーマンスになることを鑑み、息を呑んだのでしょう。緊張した面持ちのセカンドのグリゴリアンが波面の揺れのようなフレーズを弾きはじめると、それと重なるようにプリモのピリスは、フワッーとその上にモネの画のような陰影の光を描き出しました。この曲は何度も聴いてきたのに、私自身が「こんな曲だったの!」と気付きがいろいろあり、感銘を受けました。晩年の三大ソナタのような無常感・寂寥感・透明感、交響曲第7番「グレイト」のような分厚い響きとうねりのような劇的表現。「生」の断絶とも言えるパウゼ(休止)も長めに取られていました。強弱の変化が本当に大波のようだった。モーツァルトの転調は魔法のようなグラデーション的な変化なのに対し、シューベルトの転調はその落差感がジェットコースターに乗っているかのよう…。隣り合う色彩感の差異がゴーギャンの画のようです。4/17の即興曲D.935の時も感じましたが、引退間際のピリスの眼差しはシューベルトの音楽を向いているようです。この演奏が永遠に続いてほしい、終わってほしくない…と思いながら聴いていたのは私だけではないと思います。二人の指がピアノから離れると、余韻が長く残りました。そして万雷の拍手。

そしてアンコールは変更前のプログラムにあったモーツァルトの四手のハ長調K.19dを全曲演奏。この曲ではピリスがセカンド。モーツァルト9歳ぐらいの時の作。楽しいお別れ会をしているかのように響いていました。シューベルトの幻想曲が最晩年だったのに対し、アンコールのモーツァルトのは最初期の作品。何かが終わり、何かがはじまる予感。ピリスは公開演奏から退いても、なお新たにやりたいことがあることを暗示しているように私は感じました。

なぜかライブでピリスを聴く機会が無かった私でしたが、最後の来日公演で2回、彼女の演奏が聴けて、たいへん満足しました。ピリスの演奏をひとことで言うと「心から歌うピアノ」でした。

行きはKさんと二人でしたが、帰りはKさんのオーディオ関係のご友人お二人も加わり、4人でまた築地のお寿司屋へ。そして感想戦。
これだけ弾けるのに、なぜピリス74歳は引退するのか?という話題に対し、長年、ピリスを聴いてきた皆さんは「演奏にミスタッチなどがあったので、自分に厳しいピリスはそれが許せないので引退なのではないか?」というご意見がありました。私はあまりそれには賛同できませんでした。「ミスタッチでさえ、それを自然界の些細なノイズに聴かせることができるのは、ピリスのレベルじゃないとできないと思います。それに技量や体力の衰えというのなら、引退しなければならない音楽家は、他にいっぱいいますよね。」と意見を述べました。私、帰宅してから、今回のピリスの公演についてブログなどを記していた方の記事を拝見した中で、エムアイさんという方の文章が目に留まりました。


(以下、引用)
引退の理由は公式には明かされていない。ピリスを師とし、スイスで学びながら、ピリス率いる「パルティトゥーラ・プロジェクト」(*1)の一員としても活動している小林海都の2017年10/11付けツィッターにこうある、
「ピリス先生の引退の件は、芸術家が大事にしたいもの、その価値観が理解されず、国内外問わずビジネスに走る音楽界の現状に対して嫌気がさしてしまったことが主な背景です。現役として演奏するエネルギーはまだあり環境が違えば引退の時期も変わっていたはず。先生の決断から学ぶべきことは多いと思います」。
なかなか難しそうだ。結局、我々にはその一番深いところは判らないので、ここで私が解説もできない。
(*1)「パルティトゥーラ・プロジェクト」;同ワークショップを2015年に行った「彩の国」のサイト参照。http://www.saf.or.jp/arthall/stages/detail/2941


この文章の「ビジネスに走る音楽界の現状に対して嫌気」というところを読んで、今回の引退公演のチケット代が、ピリスほどの世界的ピアニストであるにも関わらず良心的な価格設定であったことに気付きました。私が買ったサントリーホールのリサイタルはS席で1万円、浜離宮朝日ホールのデュオコンサートが一律7千円でした。ポリーニや内田光子のリサイタルのチケット代はその1.5〜3倍します。私、芸術はプライスレスだと考えているので、お金の話はあまりしたくないのですが、少なくともピリスはこういう状況に対して、異議の気持ちがあることは事実のようです。

今後、ピリスは教育活動に軸足を置いて音楽活動をしているらしいです。
心からピリスのようなすばらしい音楽家を育ててほしいと思っています。

■ピリス&グリゴリアン デュオ・リサイタル
■2018年4月26日(木)19時@浜離宮朝日ホール
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
リリット・グリゴリアン(ピアノ)
・モーツァルト:4手のためのピアノ・ソナタハ長調K.521
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17番ニ長調K.576(グリゴリアン)
【休 憩】
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330/300h(ピリス)
・シューベルト:4手のための「幻想曲」ヘ短調D940
【アンコール】
・モーツァルト:4手のためのピアノ・ソナタハ長調K.19d

ラスト・ピリス、ロスト・ピリス(その1)

2018.04.27.Fri.23:46
昨日4/26、今年かぎりで引退するピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスと彼女の弟子 リリット・グリゴリアンのデュオ・リサイタルを東京の浜離宮朝日ホールで聴いてきました。その日は所用で、15時ぐらいまで荻窪へ行っていて、16時すぎに丸の内へ戻って展覧会を見ていたら、同じリサイタルを聴くKさんから携帯にメールが流れてきました。「小腹がすかないように、開演前にちょっと何か食べよう…」というお誘いでした。ということで、築地でお寿司を軽くつまみ、ノドも潤わせました。

話はやはりピリスの話が中心。私が4/17火曜、サントリーホールで聴いた彼女のリサイタルの感想や本日の演奏の展望など。その中で、1年半ほど前にKさんのお宅の音響機器でピリスのCDを聴きビックリしたことを思い出しました。わが家の安オーディオでは再現できないような繊細で微妙な表現をドイツ製のトロバドール80とういスピーカーが鳴らしていたからです。先週、はじめてピリスの実演に接し、まさにその時と同等の響きを感じたことを報告しました。

ホールに着くと、サプライズがありました。演目が変更されていたのです。当初は以下のようなオール・モーツァルト・プログラムでした。

モーツァルト :4手のためのピアノ・ソナタ ハ長調 K. 19d
モーツァルト :4手のためのピアノ・ソナタ ニ長調 K. 381/123a
モーツァルト :ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調K. 576  (グリゴリアン)
モーツァルト :ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調K. 330/300h  (ピリス)
モーツァルト :4手のためのピアノ・ソナタ ハ長調 K. 521

それが以下のように変更になっていました。
モーツァルト :4手のためのピアノ・ソナタ ハ長調 K. 521
モーツァルト :ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調K. 576  (グリゴリアン)
モーツァルト :ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調K. 330/300h  (ピリス)
シューベルト:4手のための幻想曲 ヘ短調D.940

思わず小躍りしたい気分。またピリスのシューベルトが聴ける!先週、サントリーホールで聴いたピリスが弾くシューベルトの即興曲D.935が素晴らしかった。引退前ピリスにとって、晩年のシューベルトの作品が持つ寂寥感・純粋さ・諦観などに共感するところが大きいのでしょうか?

ホワイエへ進むと、知人のHKさんとお会いしました。しばらく3人で音楽談義。最近、聴いたエリザベート・レオンスカヤのシューベルトのリサイタルの話や武満徹の音楽のことなどの話をしていたら、開演が近づいてきました。聴衆やホールの雰囲気もどことなく神妙な感じ。この日もチケット完売でした。

(つづく)

繊細なニュアンスに満ちたピリスのピアノ

2018.04.20.Fri.12:05
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4/17火曜、ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスのリサイタルを東京で聴いてきました。ピリスのCDを何枚も持っているのに、なぜかライブを聴く縁がなく、いざッ!と思ったリサイタルが、最後の来日公演になってしまいました。4/17は「初めてのピリス」、来週の4/26は「最後のピリス」になります。

ピリスはモーツァルトのソナタ全集を2回も録音しています。1974年にDENONで、1989年〜1990年にDG。若さと円熟という対比ができるアルバムです。しかし実演を聴くと、もはや録音では再現ができない繊細なニュアンスや絶妙な冴えがあり、本当にビックリしました。ヤマハのピアノも彼女の意思をよく伝えてよい仕事をしてた。今年で74歳のピリス、まだまだ弾けるのに引退は早い…というのが私の正直な気持ちです。

当日のサントリーホールは満席。開演前は神妙な雰囲気。ほとんどの来場者は、最後のピリスのツァーになることを知っている模様。私の席は2階のRBブロック5列目中央。2000人収容で残響長め、このホールでピリスの粒立ちのよい音を享受できるのは、近すぎず遠すぎずの程よい距離感と、反射音よりも直接音を主に聴ける席だと考えました。指は見えませんが、ピリスの表情も良く見えました。ステージにフワッと地味目の衣装で現れたピリスは意外に小柄な女性。しかし引退公演という感傷的な雰囲気はまったく無し。着座すると、間髪入れず演奏を開始。ピリスの演奏に熱くなっていく聴衆とは一線を画して、ピリスは熱演をするというより、純粋に音楽の中にいました。サッカーでは、良い指導者は「プレイは熱く、しかし頭はクールに」と言いそうです。
私の席からは、ピリスは半眼で弾いていたように見えました。なぜかルーブルで観たレオナルドの「聖アンナと聖母子」を思い出しました。聖母子の運命を悟りきったアンナの表情がピリスに似ていると感じたからです。そういえば、ピリスのファーストネームはマリアじゃん。聖母と同名。

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前半1曲目のモールァルトのK.332のヘ長調ソナタ。冒頭「ファーラドーラシーソファミミ」のフレーズがとてもチャーミング、そしてキラキラ感。ピアノの中にキレイな宝石がいっぱいになっていくようです。ピリスの響きの残余から感じられる繊細なニュアンスは言葉で表現するのが難しいのですが、なんとも言えない光沢、陰影、揺れ、香りのようなものが感じられます。建築家のミース・ファン・デル・ローエは“God is in the detail神は細部に宿る)”という言葉を残していますが、ピリスも魔法使いなのかもしれませんねw。

2曲目、モーツァルトのソナタK.333変ロ長調、実は私の大好物。冒頭「ソファミレドシシー」という高きから低きへ降りていく音列からは涼しい風…。ピリスは聴衆を草花や木に見立て、コンサートホールを草原にしていました。風のような揺らぎ、光と影、水の流れ、小川のせせらぎ、リスやウサギが駆け回る姿。時おり見られるミスタッチでさえ、小動物の鳴き声や葉が揺れる程度のノイズにしか聴こえない不思議さ。

後半はシューベルトの「4つの即興曲」D.935。シューマンは4曲を一体的にソナタと考えた逸話があります。しかしピリスは構成感というより、4曲それぞれに個性を与えて自由に綴っていました。1番ヘ短調は、低きところから感情がうねりのように湧き上がる高揚感にグッときた。さらに静かな湖面に光がきらめく分散和音。私が好きな2番変イ長調は4声の素朴なコラール風。さらにトリオのところの分散和音からは一筋のメロディが「声」のように聴こえてきます。3番変ロ長調は「ロザムンデ」の有名なメロディの変奏曲。同日、私は竹橋の近代美術館でみた『横山大観展』の“生々流転”という水墨画を思い出しました。水の雫が海まで流れてゆき龍とともに天に還るという40mにもおよぶ絵巻物。ピリスはひとつの小さなメロディが変容していく音楽を“流れ”のように描いていました。そして間を入れず弾かれた4番ヘ短調は舞曲風の躍動的な音楽。上下運動する流麗な音階が砂時計は急速な流れ、何かを刻むかのようなリズム感、感情を追い詰めるトリル。そして悲劇的な終結。時間は止まってくれませんでした。
これで終演なのはちょっと淋しい…と思っていたら、ピリスはアンコールに「3つのピアノ曲 D.946」の第2番変ホ長調を弾いてくれた。救われました。学術的にはロンド形式ですが、①穏やかな楽想→②一転、暗雲が迫って嵐→④穏やかさが再来→⑤新しい展開→⑥最初の穏やかな楽想へ回帰…という流れが物語のよう。私にはピリスの音楽人生の似姿と感じました。ピリスの音楽人生は波乱万丈。腕を故障してピアノが弾けなかった80年代、その後、見事に復活したことは有名です。

すばらしい演奏が聴けて私は満足できました。ここに集まった2,000人の方々は、このリサイタルの意味をよく理解していたことにも深く感じ入りました。誰もが演奏が終わった後の余韻まで、キチンと聴こうとしていたからです。だから拍手は一拍休んでから起こりました。とても気持ちがよいリサイタルでした。

帰路、考えていたことは、このリサイタルでピリスが意図したこと。モーツァルトとシューベルトは共感できる特別な作曲家なのでしょう。緻密にプログラムを組み立てるというよりも、彼女が弾きたい曲を引退公演で弾いた気がしました。最後に弾くに相応しいのは、シューベルトだったらD935の即興曲よりソナタD960かな…と私は当初、考えました。しかしホールに置いてあった名刺大のピリスのメッセージカードを車中で読んで、彼女の考えを想像してみました。
“Art and music are the deepest expressions of our soul and the direst transmission of our universe.I think everyone is born an artist and art should be shared with all people on this planet. ”
「芸術はこの惑星のすべての人々と共有されるべきだと思う。」という言葉には、ピリスは公開演奏は今年で止めるけれど、音楽家としてやりたいことがまだある!かのようなニュアンス。まだ終わりじゃないから、今はD960は弾かないのでしょうねw。

来週は追加公演を聴くために上京します。ピリスの弟子リリット・グリゴリアンとのデュオ・リサイタル。これが最後のピリスとなります。

■マリア・ジョアン・ピリス|ピアノリサイタル
■2018年4月17日(火)19時~@サントリーホール
モーツァルト : ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332
モーツァルト : ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
シューベルト : 4つの即興曲D.935
(アンコール)シューベルト : 3つのピアノ曲 D.946」から第2番変ホ長調

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女傑と白鳥の騎士が際立った『ローエングリン』@東京春祭

2018.04.09.Mon.22:21
4/8日曜、東京・春・音楽祭のメインイベントであるワーグナー・シリーズ公演『ローエングリン』(演奏会形式)を東京文化会館で聴いてきました。

本当ならこの『ローエングリン』は2011年に予定されていました。しかし311東日本大震災のため中止に。同年4月、春祭の代わりに、急遽、開催が決まった「室内楽チャリティ・コンサート」を水戸の友人U氏と一緒に聴きてきたことを思い出しました。たしか2回の休憩をはさんだ3部構成で6時間の長丁場。オペラ並の長さでした。

今回の『ローエングリン』の開演前、そのことを感慨深く思い出して時、突然、以下のような衝撃的なアナウンスがありました。「クラウス・フローリアン・フォークトは4月5日の公演後、高熱を出しました。」その瞬間、「エッー」という悲痛な声。誰もが凍りついたと思います。少し間をおいて「しかし本日の公演には体調をおして出演いたします」。ホールは拍手喝采。昨年の『神々のたそがれ』ではジークフリート役の歌手が体調不良で降板し、代演歌手がダメダメだったという悪夢を私は思い出しました。とりあえず安心。このアナウンスは、体調が悪いフォークトの出来が悪くてもご容赦を!という予防線を張ったものでしょうね。会場の空気感は「がんばろう!フォークト」という“聖杯を守る正義の白鳥の騎士”の背中を押すものに変わっていったようでしたw。

今回の『ローエングリン』も演奏会形式。ステージにはオーケストラと大合唱が陣取り、歌手たちはステージ最前列で歌います。私にとって音楽そのものが至上なので、演奏がよければ満足できます。作品のオリジナリルを壊す奇妙な読み直しや読み替えがない演奏会形式は音楽に没頭できるので私にとっては好ましい。したがって演奏の出来は悪いと不機嫌になるのは仕方がないことです。実際にこの日の私の満足度は75%ぐらいだったでしょうか。

第一幕冒頭の前奏曲の冒頭、イ長調の神秘的な和音が美しく立ち上がってきません。ヴァイオリンが一歩引いたような響き、低弦の鳴りもイマイチ。昨年、ヤノフスキが振ったN響とは雲泥の差。まあそれでも、時間が経つにつれてN響もまあまあ音が出てはきました。3階の三方にバンダを立たせ、第2幕は立体的な祝祭的響きを作る瞬間がありました。指揮者のウルフ・シルマーはあまり自己主張をせず、歌手第一主義の指揮ぶりだったようですが、私には無難に公演をこなすだけの凡庸な指揮者に感じられました。

私がもっとも印象に残った歌手は、女妖術師オルトルート役のペトラ・ラング。彼女のメークは女優の加賀まり子を怖くした小悪魔のよう。それと鋭角的な歌声。低音から高音まで音域が広さ。本来なら準主役級の役であるにも関わらず、王女を喰ってしまうかのような存在感。圧倒的でした。私はサッカー観戦用の双眼鏡で彼女の演技と歌唱を見入っていました。
それとなんと行っても白鳥の騎士を演じたクラウス・フローリアン・フォークト。動画で見られる彼のパフォーマンスをみると、ワーグナーのオペラに不可欠な英雄的ヘルデン・テノールとしては声が優しく爽やか。従来の力強いローエングリン像とはほど遠いという危惧がありました。しかし実演を聴くと、その優しく爽やかが、儚さやナイーブさに通じていることに気づき、このようなローエングリン像も受容できそうな気がしてきました。体調不良の中、最後まで歌い上げてくれてよかったです。
今回の公演は、この二人が善悪の両輪となって公演を盛り上げていたと言ってよいと思いました。個人的にはオルトルート役の「ペトラ先輩」にMVPを差し上げたいですね。

その他、ハインリヒ王役のアンガーの重厚な声、テルラムント役のシリンスの狡猾な声、それぞれ役柄に合った声質で悪くなかった。意外な好演だったのは伝令役の甲斐栄次郎。東京オペラシンガーズ、特に男声は力強い歌声で奮闘していたと思います。一方でガッカリだったのは王女エルザ役のハングラー。透明感があるキレイな声の持ち主ですが、音程が不安定。能面のような無表情に歌っていました。

今回の公演で印象に残ったシーンは、第2幕冒頭のオルトルートとテルラムントが復讐の策略を練るところ、オルトルートの凄みがある演技には戦慄しました。それと第3幕、ローエングリンが自分の素性を名乗るシーン。なかなかのフォークトの大見得でした。美男子の彼は立ち姿だけでも絵になります。演奏会形式であっても、見応えがありました。やはり演奏会形式であっても、歌唱と演技の高いパフォーマンスが見られると公演そのものが引き締まります。それと個人的な思い出ですが、第2幕のエルザの大聖堂への入場のシーンの音楽は、中学生の時に吹奏楽で演奏したことがあり、懐かしかったです。それに合唱が加わると荘厳さが倍増。主旋律に対して内声の動きが素晴らしく調和していて、よく出来た音楽であることがよく分かります。

ステージ奥にはスクリーンがあり、そこには演じられている背景が映し出されていました。演奏を邪魔するようなものではなく、私は存在自体どうでもよいと思っていましたが、公演後食事しながら感想を語り合ったGRFさんのご意見は、スクリーンがなければステージ奥までひな段を有効に使えるので、音響がもっとよくなるはずというご意見でした。かつ最前列にならぶ歌手とオーケストラの間のスペースがもっと有効に使えるかもしれませんね。演奏会形式の本公演にくる聴衆は、ワーグナーのオペラをそれなりに知っている人が多いと思われるので、説明過多になる映像は不必要かもしれませんね。
それと字幕は昨年よりはずっとよくなっていました。昨年の『神々のたそがれ』の字幕は文語調で表現が難解。この意味は何?と考えていると音楽に取り残されてしまう時もありました。しかし今年は平易な口語調。映画の字幕のようにうまく出来ていました。

最後に、私、クラシック音楽ではオペラよりも宗教音楽やドイツリートなど声楽系の方がずっと好きなのですが、1年に1回ぐらいはワーグナーの音楽で満たされた空間に浸りたくなります。来年の春祭にも期待はしています。噂では「さまよえるオランダ人」らしい。そのためには手腕がある指揮者とよい歌手を準備していただきたいです。

■『ローエングリン』東京春祭ワーグナー・シリーズ
■東京春祭ワーグナー・シリーズ vol.9
■ 出演
指揮:ウルフ・シルマー
ローエングリン:クラウス・フロリアン・フォークト
エルザ:レジーネ・ハングラー
テルラムント:エギルス・シリンス
オルトルート:ペトラ・ラング
ハインリヒ王:アイン・アンガー
王の伝令:甲斐栄次郎
ブラバントの貴族:大槻孝志、髙梨英次郎、青山 貴、狩野賢一
小姓:今野沙知恵、中須美喜、杉山由紀、中山茉莉

管弦楽:NHK交響楽団
(ゲストコンマス:ライナー・キュッヒル)
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:トーマス・ラング、宮松重紀
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン
映像:田村吾郎(RamAir.LLC)
字幕:広瀬大介